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古墳時代

古墳時代

古墳時代は、弥生時代に続き、日本列島で前方後円墳をはじめとするさまざまな形の古墳が盛んに築かれた時代である。およそ3世紀末から6世紀中頃、あるいは7世紀ごろまで続いたとされる。この時代には奈良県を中心とした大和地方で巨大な前方後円墳が出現し、それが全国各地に広がっていった。古墳の規模や形状は、被葬者の身分や権力を示すものであり、特に大仙古墳(仁徳天皇陵)や箸墓古墳などはその代表例である。

 古墳時代の特徴の一つは、ヤマト政権の成立である。ヤマト政権は有力な豪族たちの連合体として形成され、支配者は「大王(おおきみ)」と呼ばれた。政権は氏姓制度や部民制などを整備し、豪族や地方の首長を組織的に支配した。この制度によって、血族集団である「氏」と、その氏に与えられる地位や職能を示す「姓」が定められ、中央と地方の支配体制が強化された。

 また、この時代には朝鮮半島からの渡来人が多く来日し、鉄器や馬、金属加工技術、蒸し器など新たな技術や文化が伝えられた。鉄器の普及によって農業生産力が向上し、武器や農具の発達が社会の変化を促した。さらに、古墳からは銅鏡や武器、装飾品など多様な副葬品が発見されており、当時の対外交流や社会構造の複雑化がうかがえる。

 古墳時代の前期には、倭(日本)が朝鮮半島の鉄資源や先進技術を求めて進出し、高句麗と交戦した。4世紀末から5世紀初めにかけて、倭と高句麗の間で戦争が繰り返され、百済や新羅をめぐる勢力争いが展開された。高句麗の好太王碑には、倭軍が朝鮮半島南部で戦い、高句麗軍に敗れたことが記されている。

 6世紀前半には、筑紫国(現在の福岡県)で磐井の乱が発生した。527年、筑紫君磐井が大和政権の朝鮮半島出兵に反対して反乱を起こし、翌年に大和朝廷軍によって鎮圧された。この事件は、地方豪族の勢力が依然として強かったことと、ヤマト政権による支配の拡大過程を示している。

 また、古墳時代後期には仏教が伝来した。538年または552年、百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典を贈ったことがきっかけとされる。仏教の受容をめぐっては、蘇我氏と物部氏の間で崇仏論争が起こり、最終的に蘇我馬子が勝利し、仏教は日本社会に定着していった。さらに、古墳時代末期には政権内の対立が激化し、592年には蘇我馬子によって崇峻天皇が暗殺される事件が起きた。これは日本史上唯一、史実として確認できる天皇の暗殺であり、蘇我氏の権力拡大と政局の混乱を象徴する出来事であった。

 古墳時代の後期になると、巨大古墳の築造は減少し、代わって小規模な群集墳が各地に造られるようになる。この変化は、身分の低い層にも古墳築造が広がったことや、ヤマト政権の支配がより広範囲に及んだことを示している。やがて7世紀に入ると、仏教の伝来や律令制の導入とともに古墳の築造は終息し、時代は飛鳥時代へと移行していく。

 

古墳時代の年表

313年 高句麗、楽浪郡を併合
391年 倭、高句麗と交戦(『高句麗好太王碑文』)
478年 倭王武、順帝に上表
512年 大伴金村 加羅4県を百済に割譲
527年 筑紫国 盤井の乱
538年(552年) 仏教伝来
(※伝来した年については2つの説がある)
562年 加羅の滅亡
587年 物部氏滅亡
589年 隋が南北朝統一
592年 崇峻天皇暗殺

古墳時代について学ぶことのできる施設

■仁徳天皇陵古墳
https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/126

■稲荷山古墳
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/?page_id=158

■石上神宮
http://www.isonokami.jp/


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