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飛鳥時代

推古天皇の時代(593~628年)

推古天皇の時代(593~628年)は、日本史上初の女性天皇である推古天皇が即位し、聖徳太子(厩戸皇子)や蘇我馬子とともに、国家体制の整備と仏教の普及、対外関係の強化が進められた時代である。推古天皇は、崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された後に即位し、聖徳太子を皇太子として国政を委ねたとされているが、実際には推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三者が政権の中枢を担ったと考えられている。

 この時代には、仏教の受容をめぐる崇仏論争が物部氏と蘇我氏の間で繰り広げられたが、587年に蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしたことで決着し、仏教が国家の方針として受け入れられることとなった。推古天皇は「三宝興隆の詔」を発し、仏教の振興と寺院の建立を推進した。蘇我馬子は飛鳥寺(法興寺)の建立を主導し、仏教は王権の象徴としても重視されるようになった。

 内政面では、603年に家柄に関係なく個人の能力によって官位を与える冠位十二階の制度が設けられ、翌604年には役人の心構えや国家運営の基本理念を示した十七条憲法が制定された。これらの改革は、氏姓制度による豪族中心の支配から、天皇を中心とした中央集権的な国家体制への転換を目指すものであった。

 また、推古天皇の時代には中国大陸で隋が統一を果たし、東アジア情勢が大きく変化した。推古天皇と聖徳太子は、隋の進んだ制度や文化を学ぶため、600年と607年に遣隋使を派遣した。特に607年の遣隋使では、小野妹子が派遣され、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という国書を隋に届け、日本の独立性と対等外交を示した。

 このように、推古天皇の時代は、仏教の受容と振興、中央集権的な政治制度の整備、そして積極的な対外交流を通じて、日本の国家形成の基礎が築かれた時代であった。

 

舒明天皇の時代(629~641年)

舒明天皇の時代(629~641年)は、推古天皇の崩御後、皇位継承をめぐる争いの末に始まった。推古天皇の死後、後継者としては敏達天皇の孫である田村皇子(のちの舒明天皇)と、聖徳太子の子である山背大兄王の二人が有力視された。群臣の中でも意見が分かれたが、蘇我蝦夷の強い後押しを受けた田村皇子が即位し、第34代天皇となった。この際、山背大兄王を支持した境部摩理勢は蝦夷らに討たれ、田村皇子の即位が確定した。

 舒明天皇の治世は、蘇我氏の権力がさらに強まった時代であった。政治の実権は蘇我蝦夷が握り、天皇自身の独自政策はあまり目立たなかったとされる 。この時代、東アジアの国際情勢は緊迫しており、舒明天皇は即位翌年の630年に、初めての遣唐使を派遣するなど、対外関係の強化を図った。唐からは高表仁が来日し、外交上のやりとりも行われた。

 また、舒明天皇は639年から百済川のほとりに新たな宮殿(百済宮)と大寺(百済大寺)の造営を命じ、翌年には田中宮から百済宮へ遷都した。百済大寺には九重塔が建てられたが、完成後まもなく焼失したと伝えられている。

 舒明天皇は皇后に宝皇女(のちの皇極天皇・斉明天皇)を迎え、中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)など、後の歴史に大きな影響を与える皇子たちをもうけた。641年、舒明天皇は百済宮で崩御し、その後は皇后の宝皇女が皇極天皇として即位した。

 以上のように、舒明天皇の時代は、皇位継承争いを経て蘇我氏の権勢が頂点に達し、対外交流や寺院建立などが進められた時代であった。

 

皇極天皇の時代(642~645年)

舒明天皇の死後、皇后であった宝皇女が皇極天皇として即位した。皇極天皇は推古天皇と同様に、男子の後継者が定まらなかったため中継ぎの女帝として即位したとされる。在位中は蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子である蘇我入鹿が実際に国政を主導した。蘇我入鹿は父から大臣の冠を譲り受け、専横的な政治を行ったため、諸豪族や皇族の中に不満が高まっていった。

 蘇我入鹿は自らの権力を強化するため、舒明天皇の子である古人大兄皇子を天皇に立てようとし、聖徳太子の子である山背大兄王らを滅ぼした。入鹿の強権ぶりは次第に人望を失い、反発を招くこととなった。

 645年、皇極天皇4年に中大兄皇子と中臣鎌足らは、飛鳥板蓋宮において蘇我入鹿を暗殺した。これが乙巳の変である。入鹿の死後、父の蘇我蝦夷も自邸に火を放ち自害し、ここに蘇我氏本宗家は滅亡した。この事件は、蘇我氏による専横政治に終止符を打ち、天皇家中心の新たな政治体制を築く転機となった。

 乙巳の変の直後、皇極天皇は自ら退位し、同母弟の軽皇子に皇位を譲った。軽皇子は孝徳天皇として即位し、ここから大化の改新と呼ばれる一連の政治改革が始まった。皇極天皇の譲位は、日本史上初の天皇の譲位とされる。

 このように、皇極天皇の時代は蘇我氏の専横とその滅亡、そして大化の改新へと続く大きな転換期であった。

 

孝徳天皇の時代(645~654年)

孝徳天皇の時代(645~654年)は、日本史上初めて元号が定められた時代であり、大化の改新と呼ばれる画期的な政治改革が進められた。645年、皇極天皇が生前に譲位し、異母弟の軽皇子が孝徳天皇として即位した。皇太子には中大兄皇子(後の天智天皇)が立てられ、政務の中心人物として中臣鎌足(後の藤原鎌足)らとともに改革を推進した。

 孝徳天皇の即位とともに、日本で初めて「大化」という元号が制定された。これ以降、元号による年号表記が始まり、国の新たな時代の始まりを象徴するものとなった 。大化の改新は、乙巳の変(蘇我入鹿の暗殺と蘇我宗家の滅亡)をきっかけに始まり、646年には「改新の詔」が発せられた。これにより、土地と人民を国家が直接支配する公地公民制の導入、地方行政組織の整備、戸籍の作成、租税制度の改革など、天皇中心の中央集権国家体制を目指す一連の政策が打ち出された。

 また、難波長柄豊碕宮(難波宮)の造営が進められ、652年には飛鳥から難波への遷都が実現した。難波宮は、当時の国際交流の拠点ともなり、政治・外交の中心地として機能した。

 孝徳天皇の治世は、天皇を中心とした新しい国家体制の確立を目指す大きな転換点であったが、晩年には中大兄皇子や皇極上皇らが飛鳥に戻り、天皇は難波宮に孤立する形となった。654年、孝徳天皇は難波宮で崩御し、その後は皇極天皇が斉明天皇として再び即位した。

 このように、孝徳天皇の時代は、大化の改新を通じて日本の律令国家形成の基礎が築かれた重要な時代である。

 

斉明天皇の時代(皇極天皇重祚)(655~661年)

斉明天皇の時代(655~661年)は、皇極天皇が再び即位した「重祚」によって始まる。斉明天皇は孝徳天皇の死後、飛鳥板蓋宮で即位し、在位中は積極的な土木事業や対外政策を展開した。特に工事好きで知られ、飛鳥岡本宮の造営や「狂心の渠」と呼ばれる大規模な用水路の建設などを行った。

 この時代、朝鮮半島では大きな変動が起きていた。660年、唐と新羅の連合軍によって百済が滅亡する。百済の遺臣や日本に滞在していた百済王子豊璋は、日本に救援を求めた。斉明天皇はこの要請に応じ、百済再興のための軍事的支援を決断する。兵力や武器の準備のため難波宮に移り、さらに自らも西国へ向かい、筑紫の朝倉宮に移動して戦争に備えた

 しかし、朝鮮半島への出兵を目前にした661年、斉明天皇は筑紫の朝倉宮で崩御した。天皇の死後も中大兄皇子(後の天智天皇)が称制(天皇に即位せず政務を執ること)という形で指導を続け、百済救援の軍を朝鮮半島南部に派遣した

 斉明天皇の没後、663年に百済復興を目指して日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍と戦ったのが白村江の戦いである。この戦いで日本側は大敗し、朝鮮半島での影響力を失うこととなった

 斉明天皇の時代は、国内の大規模事業とともに、朝鮮半島の動乱に深く関わり、日本の外交と軍事政策が大きく転換した時代であった。

 

天智天皇の時代(668~672年)

天智天皇の時代(668~672年)は、中大兄皇子が正式に即位して始まった。この時期は、白村江の戦い(663年)での敗北を受けた国家体制の再構築と、唐の脅威に対応する国防強化が主要課題であった。668年、天智天皇は飛鳥から近江大津宮へ遷都し、新たな政治体制の確立を目指した。遷都の背景には、飛鳥の旧勢力から離れた新天地で人心を一新する意図と、琵琶湖西岸という地理的優位性を活かした防衛体制の構築があった。

 国防面では、664年に防人を対馬・壱岐・筑紫に配置し、烽火による通信網を整備した。665年からは百済の亡命技術者を活用し、大野城(福岡)・基肄城(佐賀)・長門城(山口)などの朝鮮式山城を築造。筑紫には全長1.2kmに及ぶ水城(土塁と堀)を建設し、九州北部の防衛線を強化した。これらの施設は唐軍の侵攻に備えるとともに、西日本全域に及ぶ軍事ネットワークを形成した。

 内政改革では、670年に日本初の全国的戸籍である庚午年籍を作成した。この戸籍は氏姓制度を再編し、公民・部曲・奴婢を明確に区別することで、税制と兵役の基盤を整備するものだった。また『近江令』の制定が行われ、行政組織や官僚制度の体系化が図られた(ただし現存せず、その内容は後世の記録に依存)。これらの施策は、後の律令国家形成に向けた重要な布石となった。

 天智天皇は671年、弟の大海人皇子(後の天武天皇)ではなく自らの子・大友皇子を太政大臣に任命し後継者とした。この人事が皇位継承をめぐる対立を生み、天皇崩御後の672年に壬申の乱が勃発する要因となった。治世中に推進された中央集権化政策は、天武天皇時代に引き継がれ、本格的な律令制へと発展していく。

 

天武天皇の時代(673~686年)

天武天皇の時代(673~686年)は、壬申の乱を経て即位した大海人皇子が、中央集権的な国家体制の確立に大きく寄与した時代である。672年、天智天皇の死後、その子・大友皇子と弟・大海人皇子の間で皇位継承をめぐる壬申の乱が発生した。大海人皇子は吉野から挙兵し、地方豪族の支持を得て戦いに勝利し、翌673年に飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位した。

 天武天皇は、従来の有力豪族に頼る政治から脱却し、皇族を中心とした皇親政治を展開した。大臣を置かず、法官や兵政官などを直属させて自ら政務を執った点が特徴である。要職には皇后をはじめとする皇族を任命し、氏族よりも皇族の地位を高める政策を進めた。

 また、天武天皇は八色の姓を制定して氏姓制度を再編し、身分秩序の明確化を図った。律令制度の基礎を築き、中央集権国家の形成に努めたことも大きな特色である 。さらに、日本最古の歴史書である『古事記』や『日本書紀』の編纂を命じ、国史の整備に着手した。仏教文化の振興や白鳳文化の発展にも寄与し、薬師寺の建立などの事業も進めた。

 このように、天武天皇の時代は、壬申の乱による政権交代を経て、天皇を頂点とする中央集権体制の確立と、律令国家への道筋が大きく進められた時代であった。

 

持統天皇の時代(690~697年)

持統天皇の時代(690~697年)は、律令国家体制の確立と本格的な都城建設が進められた日本古代史の画期的な時代である。持統天皇は天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后としてその治世を支えた。天武天皇の死後、当初は自身が即位せず、皇太子であった草壁皇子に皇位を継がせようとしたが、草壁皇子が689年に早世したため、翌690年に自ら即位した。

 持統天皇は、天武天皇の遺志を継ぎ、律令制度の整備に力を注いだ。689年には飛鳥浄御原令を施行し、690年には庚寅年籍という全国的な戸籍を作成させるなど、国家の法制度と行政組織の基礎を固めた。これらの政策は、後の大宝律令の制定へとつながり、日本の律令国家形成に大きな影響を与えた。また、持統天皇は日本初の本格的な都城である藤原京の建設を推進し、694年に遷都を実現した。藤原京は条坊制を採用した計画都市であり、中央集権的な国家運営の象徴となった。文化面でも『万葉集』に和歌を残すなど、和歌文化の発展にも寄与している。

 697年、持統天皇は孫の軽皇子(文武天皇)に譲位し、太上天皇として引き続き政務を補佐した。彼女の治世は、平和的な権力移行と国家体制の安定、そして律令国家への道筋を確立した点で、日本史上きわめて重要な時代であった。

 

文武天皇の時代(697~707年)

文武天皇の時代(697~707年)は、日本の律令国家体制が本格的に完成した重要な時代である。文武天皇は、持統天皇の孫であり、草壁皇子の子としてわずか15歳の若さで即位した。即位当初は祖母である持統上皇が太上天皇として後見し、政治の安定を図った。

 この時代の最大の業績は、701年に刑部親王や藤原不比等を中心として編纂された大宝律令の制定である。大宝律令は、天武・持統両天皇の時代から進められてきた法整備の集大成であり、日本で初めて「律」(刑法)と「令」(行政法・民法)を体系的に整えた成文法典である。この律令の施行により、中央集権的な国家体制が確立し、地方行政や税制、戸籍制度などが整備された。特に班田収授法による土地の配分や、国・郡・里といった地方行政単位の確立は、国家運営の基礎を固めることとなった。

 また、文武天皇の治世には、702年に遣唐使が再開され、唐の先進制度や文化の積極的な導入が図られた。さらに、九州南部や南西諸島への支配を強めるなど、領土の拡大や対外政策にも取り組んだ。

 文武天皇は藤原不比等の娘・宮子を妃とし、二人の間には後の聖武天皇となる首皇子が生まれている。707年、文武天皇は25歳の若さで崩御し、その後は母の元明天皇が即位した。

 このように、文武天皇の時代は大宝律令の制定と施行を通じて日本の律令国家体制が完成し、中央集権的な統治が確立した画期的な時代であった。

 

飛鳥時代の年表

592年 馬子が崇徳天皇を暗殺 → 推古天皇が即位
※聖徳太子が摂政へ
604年 冠位十二階を定めた(人材登用のための制度)
604年 十七条憲法を制定
607年 小野妹子 裴世清を答礼使として派遣
608年 高向玄理、僧旻、南淵請安ら留学、隋の滅亡と唐の建国を見る
645年 大化の改新
663年 斉明天皇 白村江の戦(百済の救済)
白村江の戦 敗戦 → 大宰府の守りのため、防人、水城、朝鮮式山城、烽
668年 中大兄皇子即位 天智天皇へ
天智天皇の命により藤原鎌足が近江令を編纂
670年 庚午年籍作成
672年 壬申の乱(大海人皇子=天智の弟 対 大友皇子=天智の子)
大海人皇子の勝利 天皇権威が高まり、公地公民制が確立された
673年 大海人皇子は飛鳥浄御原宮に遷都、天武天皇となる
684年 八色の姓を定める
690年 庚寅年籍作成、口分田を班給
694年 藤原京に遷都
701年 文武天皇 大宝律令制定

飛鳥時代について学ぶことのできる施設

■大阪歴史博物館 難波宮遺跡探訪(大阪府中央区)
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/zyousetu/b1.html

■近江大津宮錦織遺跡(滋賀県大津市)
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/971

■石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)
https://asukamura.com/sightseeing/499/

■亀形石造物(奈良県高市郡明日香村)
https://asukamura.com/sightseeing/522/

■「体験!飛鳥」(奈良県高市郡明日香村)
https://asukamura.com/experience/545/

■公益財団法人 古都飛鳥保存財団(奈良県高市郡明日香村)
http://www.asukabito.or.jp/


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