Japanese History Digest 公式ページへようこそ!
飛鳥時代
推古天皇の時代(592~628年)
推古天皇の時代(592~628年)は、日本史上初の女性天皇である推古天皇が即位し、聖徳太子(厩戸皇子) や蘇我馬子とともに、国家体制の整備と仏教の振興、対外関係の強化が進められた時代である。 崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺された後、推古天皇が即位し、聖徳太子を皇太子として国政を委ねたと伝えられるが、実際には推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の三者が政権の中枢を担ったと考えられている。
仏教をめぐる崇仏論争は587年に物部守屋が蘇我馬子によって滅ぼされたことで決着し、仏教が王権と結びついた新たな宗教として受け入れられる基盤が形成された。 推古朝に入ると、推古天皇は594年に「三宝興隆の詔」を出し、寺院建立や僧尼の養成を通じて仏教を国家的に保護・奨励する方針を明確にしたと『日本書紀』に記されている。 蘇我馬子は飛鳥寺(法興寺)の造営を主導し、仏教寺院は王権の威信を象徴する存在としても重視された。
内政面では、603年に冠位十二階の制度が設けられ、604年には十七条憲法が制定されたと伝えられる。これらは氏姓制の枠内で上級豪族層を対象としつつも、家柄だけでなく個人の才能や勤労を評価する理念を打ち出し、官人の心得や統治理念を示すことで、天皇を中心とする新たな統治秩序の構想を示したものと理解されている。氏族中心の支配から天皇中心の中央集権的な国家体制へと向かう転換の初期的段階として位置づけられる。
対外関係では、中国大陸で隋が統一を果たした後の東アジア情勢の変化を受け、推古朝はその先進制度や文化を積極的に摂取しようとした。600年に初めて遣隋使が派遣され、607年には小野妹子が再び隋に送り出され、有名な国書を隋の煬帝に届けた。さらに608年には裴世清が来日し、両国の交流は一層活発化した。こうして推古天皇の時代は、仏教の本格的受容と政治制度の整備、そして外交の展開を通じて、日本国家形成の基礎が築かれた時代となった。
舒明天皇の時代(629~641年)
舒明天皇の時代(629~641年)は、推古天皇の崩御(628年)の後、皇位継承をめぐる調整を経て始まった時代である。推古天皇の死後、後継候補としては敏達天皇の孫である田村皇子(のちの舒明天皇)と、聖徳太子の子である山背大兄王が有力視され、群臣の間で意見が分かれたが、蘇我蝦夷の強い支持を受けた田村皇子が第34代天皇として629年に即位した。山背大兄王を支持した境部摩理勢は蝦夷らの追討を受けて自害した。この抗争の結果、舒明政権が確立したとされる。
舒明天皇の治世には蘇我氏の権力がいっそう強まり、実際の政治運営は蘇我蝦夷を中心とする豪族勢力によって担われたと見られる。天皇自身の独自政策は史料上明瞭ではないが、国家運営の実権が蘇我氏に集中していたことは確かである。東アジア情勢が唐の成立(618年)によって大きく変動するなか、舒明天皇は630年に日本初の遣唐使を派遣し、隋から唐への外交転換を果たした。これが以後の唐との本格的な交流の端緒となった。
宮都政策として、639年頃から百済川の畔に百済宮の造営を命じ、また百済大寺の建立を進めた。百済大寺には九重塔を建てる計画があったと『日本書紀』に伝えられ、王権の威信を示す大寺院として構想されていたが、創建後、火災で焼失したと記録されている。田中宮から百済宮への遷都は、舒明朝における政治・宗教の新たな拠点形成を示す動きと考えられる。
舒明天皇は皇后に宝皇女(のちの皇極・斉明天皇)を迎え、中大兄皇子(後の天智天皇)や大海人皇子(後の天武天皇)らをもうけた。641年、舒明天皇は百済宮で崩御し、その後を宝皇女が皇極天皇として継承し、次代へと続いていく。
皇極天皇の時代(642~645年)
舒明天皇の死後、皇后であった宝皇女が皇極天皇として即位し、その治世は蘇我氏の専横とその崩壊を特徴とする。 皇極天皇は、男子の明確な後継者について合意を欠いた状況で即位したため、従来は「中継ぎの女帝」として位置づけられてきたが、近年の研究では政治的役割をより主体的に評価する見解も示されている。 在位中は蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子蘇我入鹿が実際に国政を主導した。
643年、入鹿は自らの勢力拡大を図り、舒明天皇の子とされる古人大兄皇子を後継候補として支持し、対立する聖徳太子の子・山背大兄王一族を攻め滅ぼしたと伝えられる。こうした専横政治に対して豪族や皇族の反発が強まり、政治的緊張が高まった。645年(皇極4年)、中大兄皇子と中臣鎌足らは飛鳥板蓋宮で入鹿を討ち、いわゆる乙巳の変が起こった。
入鹿の死後、蘇我蝦夷も自邸に火を放って自害し、蘇我氏本宗家は滅亡した。 この事件は蘇我氏による専横政治に終止符を打ち、天皇家中心の新たな政治体制へと移行する契機となった。 乙巳の変の直後、皇極天皇は自ら退位し、同母弟の軽皇子に皇位を譲った。 軽皇子は孝徳天皇として即位し、ここから大化の改新と総称される一連の政治改革が始まった。
皇極天皇の譲位は、記録上確認できる範囲では日本史上初の譲位とされ、後世の天皇譲位の先例となった。 このように、皇極天皇の時代は蘇我氏の権勢の頂点とその瓦解、大化改新への転換点となる重要な時期であった。
孝徳天皇の時代(645~654年)
孝徳天皇の時代は、中央集権的な国家づくりを目指す政治改革が進められた時期である。645年、乙巳の変の直後に、前の皇極天皇が位を譲り、その弟の軽皇子が孝徳天皇として即位した。皇太子には中大兄皇子(のちの天智天皇)が立てられ、中臣鎌足と協力して新しい政治体制を進めた。
孝徳天皇の即位とともに、現存史料上日本最初の元号である「大化」が定められた。これをきっかけに始まった政治改革は「大化の改新」とよばれ、646年に出された「改新の詔」では、土地と人民を国家のものとする「公地公民制」の理念や、地方の行政区画の整備、戸籍や税の制度の確立などが示され、天皇中心の統一的な国家をつくる方針が示された。これらの改革は、のちの律令国家成立へとつながる基礎となった。
政治の中心は飛鳥から難波長柄豊碕宮(難波宮)へと移され、7世紀中頃には難波への遷都が進められたといわれている。難波宮は中国や朝鮮半島と往来しやすい場所にあり、外交や貿易の拠点としての役割も果たした。孝徳天皇の晩年には、中大兄皇子や皇極上皇らが飛鳥に戻り、孝徳天皇は難波宮にとどまる形となったため、その政治的立場は次第に弱まったと考えられている。
654年、孝徳天皇は難波宮で亡くなり、その後、皇極上皇が再び即位して斉明天皇となった。孝徳天皇の時代は、乙巳の変を契機に始まった大化の改新によって、日本の中央集権国家としての歩みが始まった重要な時期といえる。
斉明天皇の時代(皇極天皇重祚)(655~661年)
斉明天皇の時代(655~661年)は、皇極天皇が再び即位する「重祚」によって始まり、積極的な土木事業と朝鮮半島情勢への深い関与を特徴とする。654年(白雉5年)10月、孝徳天皇が難波宮で崩御すると、翌年の初めに、飛鳥宮(現在の飛鳥宮跡で、かつては伝飛鳥板蓋宮跡と呼ばれていた場所)において再び即位し、その在位中、飛鳥岡本宮の造営や「狂心の渠」と呼ばれる大規模な用水路建設など、各地で大がかりな工事を推進した。
この時期、朝鮮半島では唐と新羅の連合軍による百済攻撃が進み、660年に百済は滅亡した。 百済王族や遺臣たちは倭国に救援を求め、百済王子豊璋も日本に滞在して支援を仰いだ。 斉明天皇は百済再興の要請に応じて軍事的援助を決断し、兵力や物資の動員のために難波宮に移ったのち、自らも西国へ赴き、筑紫の朝倉宮に移動して出兵準備にあたった。
しかし、朝鮮半島への本格的な出兵を目前にした661年、斉明天皇は朝倉宮で崩御した。 天皇の死後も中大兄皇子(後の天智天皇)が即位せずに政務を執る称制の形で指導を続け、百済救援の軍を朝鮮半島南部に派遣した。 斉明天皇の没後、663年には日本・百済連合軍が唐・新羅連合軍と戦った白村江の戦いが起こり、日本側は大敗して朝鮮半島での影響力を失った。
斉明天皇の時代は、国内での大規模事業と、朝鮮半島の動乱への積極的関与を通じて、日本の外交・軍事政策が大きく転換した時期であった。 白村江敗戦後の防衛体制強化は、次の天智朝において本格化することになる。
中大兄皇子称制期(661~668年)から天智天皇(668~672年)の時代
斉明天皇の崩御後(661年)、中大兄皇子が即位せずに政務を執る称制の形で国家を指導し、白村江敗戦(663年)後の国家再編と国防強化に全力を注いだ時期である。667年に近江大津宮へ遷都し、翌668年に正式に即位して天智天皇となり、新たな政治体制の確立をめざした。大津への移動は、飛鳥の旧勢力から一定の距離を置きつつ、琵琶湖西岸の地理的条件を活かして防衛体制を整える意図があったと解されている。
国防面では、白村江の戦い(663年)敗北直後の天智天皇3年(664年)に対馬・壱岐・筑紫に防人を配置し、烽火による早期警戒網を整備した。 同年以降、百済亡命技術者の知識を活用し、大野城(福岡)・基肄城(佐賀)などの朝鮮式山城を連続的に築城、水城(筑紫)と一体の多層防衛網を構築した。
内政面では、670年に日本初の全国的戸籍とされる庚午年籍が作成され、氏姓制度の再編とともに、租税・兵役賦課の基礎となる身分・戸口把握が進められた。また、いわゆる「近江令」が制定されたとされ、行政組織や官僚制の体系化が図られたが、この令そのものは現存せず、その内容は後世の史料に依拠して推定されている。これらの施策は、後の本格的な律令制確立に向けた重要な準備段階に位置づけられる。
671年、天智天皇は弟の大海人皇子(のちの天武天皇)ではなく、自らの子である大友皇子を太政大臣に任じて政治の中枢に据えたため、皇位継承をめぐる緊張が高まった。天智天皇の崩御後、672年に大海人皇子と大友皇子の間で壬申の乱が勃発し、この内乱の勝者となった大海人皇子が天武天皇として新たな体制を築いていくことになる。
天武天皇の時代(673~686年)
天武天皇の時代(673~686年)は、壬申の乱に勝利した大海人皇子が天武天皇として即位し、天皇を頂点とする中央集権国家の形成を一段と推し進めた時代である。 天武天皇は672年の壬申の乱で地方豪族の支持を背景に大友皇子を破り、翌673年に飛鳥浄御原宮で即位した。 これにより、天智天皇の後継をめぐる王権の主導権が、大海人皇子に移った。
天武天皇は従来の有力豪族に依拠する政治から脱却し、皇族を中心とする皇親政治を展開したと解釈されている。大臣職を恒常的に置かず、法制や軍事などの官司を天皇直轄のもとに再編して自ら政務を統括したと考えられる。 要職には皇后鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)をはじめとする皇族を任命し、氏族よりも皇族の地位を高める政策をとった。
また、684年には、天武天皇は八色の姓を制定して氏姓制度の再編を進め、身分秩序の明確化を図った。 律令制度の基礎となる諸制度の整備に取り組み、中央集権国家の枠組みを築いていったことも大きな特色である。 さらに、日本最古の歴史書とされる『古事記』や『日本書紀』の編纂事業を開始させたとされ、王権の正統性を示す国史編纂を通じて天皇中心の秩序を正当化しようとした。
宗教・文化面では、仏教を国家保護し、のちに白鳳文化と呼ばれる文化開花の基盤を築いた。薬師寺の創建を命じ(主要造営は持統天皇期)、薬師如来信仰を中心とする寺院建立を推進した。天武朝の仏教政策は、壬申の乱後の政権正当化と天皇権力強化を象徴し、律令国家形成期の精神文化基盤を確立した。
持統天皇の時代(690~697年)
持統天皇の時代(690~697年)は、律令国家体制の整備と本格的な都城建設が大きく進展した画期的な時代である。 持統天皇は天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后としてその治世を支えた人物である。 天武天皇の死後、当初は皇太子草壁皇子に皇位を継がせようとしたが、草壁皇子が689年に早世したため、翌690年に自ら即位した。
持統天皇は天武天皇の諸制度を継承し、律令国家体制の基盤固めに努めた。 690年には庚寅年籍を作成し、全国的な戸口把握を確実なものとした。これらの施策は、701年制定の大宝律令へと連なり、日本律令国家形成の重要な過渡期を形成した。さらに、持統天皇は日本初の本格的な条坊制都城とされる藤原京の建設を推進し、694年に遷都を実現した。 藤原京は碁盤目状の都市計画を備えた大規模な都であり、天皇を中心とする中央集権的国家運営の象徴となった。 文化面では、『万葉集』に残る和歌を通じて、宮廷和歌文化の発展にも寄与したと評価される。
697年、持統天皇は孫の軽皇子 (文武天皇)に譲位し、自らは太上天皇としてなお政務に関与しつつ、平和的な権力移行を行った。 その治世は、政治体制の安定と律令国家への道筋の具体化という点で、日本古代史上きわめて重要な位置を占める。
文武天皇の時代(697~707年)
文武天皇の時代(697~707年)は、律令国家体制の法制面の基礎が整えられた重要な時代である。 文武天皇は持統天皇の孫であり、草壁皇子の子として若くして即位し、当初は持統上皇が後見として政務を支えた。 これにより、天武・持統政権の方針が継承されつつ、次世代の治世へと移行していった。
この時代の最大の成果は、701年に刑部親王や藤原不比等らを中心として編纂された大宝律令の制定である。 大宝律令は、天武・持統両朝から続く法制整備の集大成として、「律」(刑法)と「令」(行政法・民事法)を体系的に整えた成文法典であった。 これにより、中央と地方の官僚機構、租税制度、戸籍・班田収授などが法的枠組みの下で整理され、律令国家体制は法制面で完成に近づいたとみなされる。
文武朝では702年に遣唐使を派遣し、唐の先進的な制度や文化の積極的な導入が進められた。 また、九州南部の統治を強化するなど、地方支配の基盤整備を進め、国家の統合を進めたと考えられている。 文武天皇は藤原不比等の娘宮子を妃とし、その間に後の聖武天皇となる首皇子が生まれた。
707年、文武天皇は25歳前後の若さで崩御し、その後は母の元明天皇が即位して政権を継承した。 文武天皇の時代は、大宝律令の制定とその施行準備を通じて、律令国家としての枠組みが本格的に整えられた節目の時代であったといえる。
飛鳥時代の年表
| 592年 | 蘇我馬子、崇峻天皇暗殺 → 推古天皇即位 |
| 604年 | 冠位十二階制定(人材登用制度)。十七条憲法公布 |
| 607年 | 小野妹子を遣隋使として派遣 |
| 608年 | 高向玄理・僧旻・南淵請安ら留学生、渡隋 (長期滞在し、帰国後に隋末唐初の制度・情勢を伝える) |
| 645年 | 大化の改新(中大兄皇子・中臣鎌足主導、公地公民制の基礎) |
| 663年 | 白村江の戦いで日本・百済連合軍敗北 (斉明天皇崩御後・中大兄皇子称制期) → 防人・水城・朝鮮式山城・烽火の整備進む |
| 668年 | 天智天皇即位。近江大津宮遷都 → 国防体制の整備継続 |
| 670年 | 庚午年籍作成(天智天皇) |
| 672年 | 壬申の乱(大海人皇子 vs 大友皇子) → 大海人皇子勝利、天皇権威向上 |
| 673年 | 天武天皇即位、飛鳥浄御原宮を拠点 → 皇親政治の展開、律令制整備と公地公民制の再編を推進 |
| 684年 | 八色の姓制定(天武天皇) |
| 690年 | 庚寅年籍作成 |
| 694年 | 藤原京遷都(持統天皇) |
| 701年 | 大宝律令制定(文武天皇) |
飛鳥時代について学ぶことのできる施設
■大阪歴史博物館(大阪府中央区)
https://www.osakamushis.jp/
■近江大津宮錦織遺跡(滋賀県大津市)
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/971
■石舞台古墳(奈良県高市郡明日香村)
https://asukamura.com/sightseeing/499/
■亀形石造物(奈良県高市郡明日香村)
https://asukamura.com/sightseeing/522/
■「体験!飛鳥」(奈良県高市郡明日香村)
https://asukamura.com/experience/545/
■公益財団法人 古都飛鳥保存財団(奈良県高市郡明日香村)
http://www.asukabito.or.jp/
本サイトに掲載している日本史に関する情報は、可能な限り正確性を期して作成しておりますが、その内容の完全性・正確性・最新性を保証するものではありません。 史料解釈の違い、研究の進展、記述上の不備等により、誤りが含まれる可能性があります。 また、本サイトには日本語の内容を基に作成した外国語ページが含まれており、翻訳過程において表現の差異や誤訳、不正確な表現が生じる場合があります。これらの翻訳ミスも含め、掲載内容に起因して生じたいかなる損害についても、当サイトは一切の責任を負いかねます。
