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江戸時代 中期
元禄時代(綱吉)
元禄時代とは、江戸時代中期の元禄年間(1688〜1704年)を中心とした時期を指し、五代将軍徳川綱吉の治世(1680〜1709)と重なる。近年の研究では、従来「悪法」とされてきた生類憐みの令について、戦国以来の武断政治からの転換を図る社会政策として再評価が進んでいる。特に捨て子禁止や弱者の保護といった人道的要素を含んでいた点が注目されている。
経済面では、徳川幕府による長期的平和が農業生産の向上と商業流通の拡大をもたらした。江戸・大坂・京都を中心とした都市の発展により、町人階級が経済的・文化的に台頭した。元禄期の貨幣改鋳(1695年頃)はインフレを招いたが、全体として米価の相対的安定と金銀流通が経済繁栄を支えた。
文化面では、井原西鶴が浮世草子で町人生活を写実的に描写し、松尾芭蕉が俳諧を芸術の域に高めた。菱川師宣の「見返り美人図」に代表される浮世絵の確立や、近松門左衛門「曽根崎心中」(1703年初演)の上演は、元禄文化の成熟を示す象徴的事例である。水戸藩上屋敷の小石川後楽園の整備は、この時代の造園文化の一例である。
政治面では、生類憐みの令が一部で過度な運用により庶民生活に摩擦を生じさせた。また元禄期後半には幕府財政の悪化が顕在化し、宝永期の経済混乱へとつながる兆候が現れた。自然災害では1703年(元禄16年)の元禄地震が関東地方に甚大な被害をもたらした。事件面では1702年(元禄15年)の赤穂事件が注目され、その経緯が後世の芸術作品に多大な影響を与えた。
総じて元禄時代は、経済的繁栄と町人文化の成熟が特徴的で、現代日本文化の源流として重要な位置を占める。特に都市住民の生活文化が洗練された点で、日本史上特筆すべき時代である。
正徳の治(家宣・家継)
徳川家宣・徳川家継の時代に行われた「正徳の治」は、幕府の財政再建や朝廷との関係改善を目指した政治改革であり、新井白石が中心となって進めた政策が特徴的である。この治世は、江戸幕府の安定化を図る重要な時期として評価されている。
五代将軍徳川綱吉には跡継ぎがいなかったため、養子となった家宣が六代将軍に就任した。その後、家宣の子である家継が七代将軍となり、両者の治世を通じて新井白石が幕政を補佐した。白石は朱子学者としての知識と理念を活かし、政治・経済・外交において幅広い改革を実施した。
「正徳の治」の主要な政策は以下の3点である。
1)朝廷との関係改善
新井白石は、紫衣事件以降しばらく緊張をはらんできた朝廷との関係を修復するため、宝永7年(1710年)に閑院宮家を創設した。これは天皇家の分家を新たに設けることで朝廷への配慮を示し、朝幕間の安定化を図ったものである。
2)貨幣制度の改革
元禄期に発行された元禄金銀は含有率が低く物価上昇を招いた。新井白石はこれを改め、家康時代の慶長金銀と同じ含有量の正徳金銀を鋳造した。この改革により貨幣価値の安定化が図られ、経済基盤の強化につながった。
3)朝鮮通信使待遇の簡素化
従来、朝鮮通信使の接待には多額の費用がかかっていた。白石はその待遇を簡素化することで経費削減を図り、財政負担を軽減した。この政策は幕府財政再建策として重要な意義を持つ。
享保の改革(吉宗)
享保の改革は、八代将軍徳川吉宗が1716年の将軍就任から1745年の隠居までの在職期に行った幕政改革であり、その中心は享保年間(1716〜1736年)に集中する。この改革は、幕府財政の再建と幕府権威の再確立を目的として実施され、江戸時代中期における重要な政治的転換点とされている。
まず、財政再建のために吉宗はさまざまな施策を講じた。1722年に始まった上米の制では、大名に対し石高1万石につき100石の米を上納させる代わりに、江戸での参勤交代の滞在期間を1年から半年に短縮した。これにより幕府は年間およそ18万石の米を確保し、財政基盤を強化した。ただし、この政策は大名統制の面で逆効果との指摘もある。
年貢制度にも改革が加えられた。年貢負担を実質的に引き上げ、「五公五民」と形容される水準にまで高めた地域も多かった。また、一部地域で過去の平均収穫量に基づく定免法を採用し、検見法から定免法への転換を進めたことで、農民と役人双方の不安定な状況を是正しようとした。さらに、紀州藩出身の技術者・井澤弥惣兵衛を登用し、町人資本による新田開発を全国的に推進した。
人材登用の面では、足高の制を導入し、家格にかかわらず有能な人物が登用される体制を整えた。この制度により、名主出身の田中丘隅のように幕政に意見書を提出し農政に影響を与えた者も現れた。
社会政策としては、庶民の意見を政策に反映させるため、1721年に目安箱が評定所前に設置された。また、1742年には裁判の基準となる法典『公事方御定書』が編纂され、法の整備が進められた。さらに、旗本や御家人の借金問題を自力解決に委ねる相対済し令も発布された。
農業政策としては、青木昆陽を登用して甘藷(サツマイモ)栽培を奨励し、飢饉への備えを強化した。あわせて、木綿・菜種・藍などの商品作物の栽培も奨励され、農村経済の活性化が図られた。
このように享保の改革は一定の成果を挙げ、幕府の収入は江戸時代を通じて最高水準に達し、米相場の安定も実現した。しかし一方で、年貢増徴によって農民の負担は増加し、百姓一揆が全国で頻発した。また、1732年の享保の大飢饉では定免法採用地で凶作時の年貢減免が行いにくい欠点が露呈した。
享保の改革は、後の寛政の改革・天保の改革と並んで「幕府三大改革」の一つとされる。徳川吉宗の改革は、幕府の再建に一定の成果を収めたものの、幕藩体制が抱える根本的な問題の解決には至らなかった。とはいえ、新田開発における町人資本の活用など、新たな社会構造の萌芽を見せた点において、重要な歴史的意義を有している。
田沼意次の政治(田沼政治)
田沼意次は、十代将軍徳川家治の側用人から老中に昇進し、18世紀後半の幕政を主導した人物である。それまでの幕府財政は、主に農業収入、すなわち米による年貢に依存していたが、田沼はその限界を認識し、商業を基盤とした経済政策によって財政再建を図った。彼の政治は、従来の農本主義的方針から脱却し、重商主義的政策へと転換を試みた点で画期的であった。
まず、田沼は商業を重視した経済政策を展開した。なかでも特徴的なのが株仲間の公認である。株仲間とは、特定の業種の商人に営業独占権を与える制度であり、これにより幕府は「運上金」や「冥加金」といった課税収入を安定的に得ることができた。さらに、通貨制度の改革として、従来の秤量銀貨から計数銀貨へと転換を進め、貨幣の流通効率を向上させた。
また、田沼は長崎貿易の拡大にも取り組んだ。特に、干しアワビ・フカヒレ・イリコなどの俵物輸出を奨励し、中国との貿易で輸出超過を図り、金銀流出の抑制に努めた。加えて、決済手段を銀から銅や俵物に転換することで、国内の貴金属保有を維持した。さらに、蝦夷地(北海道)においては1785年に俵物元役所を設置し、産地直送体制を確立するなど、地域開発と貿易促進を結びつけた。
しかし、田沼政治は必ずしも順風満帆ではなかった。商人との癒着や株仲間の優遇が「金権政治」として批判され、特に後に老中となる松平定信らから激しく非難された。また、1782年からの天明の飢饉や、1783年の浅間山噴火など自然災害が重なり、全国各地で百姓一揆が多発した。これらの困難に加え、1786年の徳川家治の死を契機に反田沼派が台頭し、同年に田沼は老中職を解任された。
田沼政治は、当時の民衆や後世の保守的な立場から「賄賂政治」として否定的に語られることが多かった。しかし、近年の研究では、田沼による一連の政策は近世日本における初の経済改革と位置づけられ、重商主義的先駆性が再評価されている。とりわけ、計数銀貨の導入や対中貿易での輸出超過、金銀の流出抑制などは、当時としては極めて先進的な試みであったとされている。
このように、田沼意次の政治は、幕府の財政構造に抜本的な転換を迫るものであった。結果的に短命に終わったものの、その重商主義的思想と政策は、江戸時代後期の経済思想や幕政のあり方に大きな影響を与えた点で、歴史的意義はきわめて大きい。
寛政の改革(松平定信)
寛政の改革は、1787年から1793年にかけて老中・松平定信によって主導された幕政改革である。改革の目的は、前任の老中・田沼意次の重商主義的政策から転換し、農村の復興と幕府権威の再建を図ることであった。基本方針は質素倹約・綱紀粛正を柱とし、徳川吉宗の「享保の改革」を模範とした。
1)財政再建と緊縮政策
幕府は奢侈禁止令を出して、武士から町人に至るまで生活の簡素化を求めた。次に、棄捐令(1789年)を発布し、旗本・御家人が1784年以前に負った債務の帳消しを命じた。これは彼らの生活再建を意図したものであったが、貸主であった札差(金融業者)が経営難に陥り、結果として幕府の信用は大きく損なわれた。また、都市における貧民救済策として七分積金制度を導入した。
2)農村復興政策
都市に流入した農民を故郷へ戻す旧里帰農令(1790年)では、帰農資金を支給したが、身元保証が必要で効果は限定的であった。また、飢饉対策として諸藩に対し囲米制度を導入し、社倉・義倉を再整備した。
3)都市社会政策
1790年には江戸・石川島に人足寄場を設置し、無宿人を収容して職業訓練を施した。また、米価統制の一環として江戸に町会所が設置された。
4)思想統制
1790年の寛政異学の禁では、朱子学以外の教学を禁止し、思想の一元化を図った。さらに、1791年の出版統制令で娯楽的出版物を規制した。
5)政策的矛盾と限界
商業を軽視した一方で、実際には勘定所御用達商人に依存せざるを得ず、田沼時代の政策を完全には否定できなかった。帰農政策も都市労働の実入り良さを無視しており、実効性に乏しかった。異学の禁は学問の多様性に一定の制約を与えた。
【歴史的評価】
近年では、社倉制度の再整備や人足寄場の社会政策が評価されつつある。ただし、過度な緊縮政策によって消費経済を冷え込ませ、財政構造そのものの改革には至らなかった点が限界として指摘されている。また、定信は蝦夷地の調査や海防強化にも取り組み、後の幕政に影響を与えた。このように、寛政の改革は道徳的な引き締めと農村復興を目指したが、現実との乖離により限定的な成果にとどまった。
大御所時代と大塩平八郎の乱
第十一代将軍徳川家斉が実権を握っていた時期を大御所時代と呼ぶ。家斉は1787年に将軍となり、1837年に将軍職を子の家慶に譲って隠居したが、その後も「大御所」として幕政の実権を握り続け、1841年に亡くなるまで政治の中心にあった。
この時代は、文化・文政時代(1804〜1830年)や化政時代とも呼ばれ、江戸を中心に町人文化が大きく発展した。浮世絵や歌舞伎、俳諧などの芸術が栄え、庶民の生活や娯楽が豊かになった時期である。
一方で、幕府の財政は悪化し、政治の緊張が緩んだ。家斉やその側近たちは贅沢な生活を送り、幕政の乱れが目立つようになった。また、1833年頃から数年にわたる天保の大飢饉や大塩平八郎の乱(1837年)など、社会不安や一揆が多発し、幕府の支配体制に揺らぎが生じた。さらに、外国船の来航が増えるなど、鎖国体制のもとで外交問題も表面化し始めた。
1841年、家斉の死去とともに大御所時代は終わりを迎え、幕府は水野忠邦による天保の改革など、再び厳しい統制を目指す時代へと移行した。大御所時代は、町人文化が発展する一方、幕府の財政や政治の乱れ、社会不安が深刻化し、江戸幕府の衰退が始まった時期である。
天保の改革
19世紀前半、天保の大飢饉や大塩平八郎の乱をはじめとする民衆の不満が高まる中、将軍徳川家斉の死去(1841年)を契機に、老中水野忠邦が幕政の主導権を握った。忠邦は、幕府の権威回復と社会の秩序再建を目指し、一連の改革に着手した。これが天保の改革(1841〜1843年)である。
水野忠邦はまず、贅沢な生活を戒めるために倹約令を強化し、庶民の生活や娯楽にまで厳しい規制を加えた。芝居小屋の取り締まりや遊郭の移転といった施策も実施された。
次に、物価の安定を図る目的で、商人の特権を認めていた株仲間を解散させ、自由競争による市場の正常化を試みた。しかしこの政策は、商業流通の混乱を招き、物価不安定を助長したとの批判もある。
さらに、幕府の支配力を強化するため、上知令を発布し、江戸や大坂周辺の大名・旗本の領地を幕府の直轄地としようとした。だが、これは諸大名の強い反発を招き、広範な実施には至らなかった。
水野忠邦の改革は、急進的かつ一方的な政策が多かったため、広く支持を集めることができなかった。特に上知令の失敗は決定的となり、1843年に忠邦は老中を罷免され、天保の改革は幕を閉じた。
江戸時代 中期の年表
| 1702年 | 赤穂浪士、吉良義央を討つ |
| 1709年 | 新井白石を登用(正徳の治) |
| 1716年 | 徳川吉宗、享保の改革 |
| 1723年 | 足高の制 |
| 1732年 | 享保の飢饉 |
| 1767年 | 田沼意次、側用人に |
| 1782年 | 天明の飢饉 |
| 1787年 | 松平定信、老中に(寛政の改革) |
| 1789年 | 棄捐令 |
| 1790年 | 人足寄場設置 |
| 1833年 | 天保の飢饉 |
| 1837年 | 大塩平八郎の乱 |
| 1841年 | 天保の改革(〜43年) |
| 1841年 | 株仲間の解散 |
| 1842年 | 天保の薪水給与令 |
江戸時代 前期について学ぶことのできる施設
■特別城趾江戸城(環境省HP)
https://www.env.go.jp/garden/kokyogaien/1_intro/his_01.html
■和歌山城(紀州徳川家 居城)
http://wakayamajo.jp/index.html
