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安土桃山時代
安土桃山時代
安土桃山時代は、戦国時代の終盤にあたり、織田信長と豊臣秀吉が相次いで政権を握り、全国統一がほぼ達成された時代である。信長が居城とした近江の安土城と、秀吉の築いた伏見城が桃山丘陵に位置したことから、「安土桃山時代」と呼ばれている。この時代の始まりについては、信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年とする説と、義昭を京から追放して室町幕府を滅ぼした1573年とする説がある。また終わりについても、徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利した1600年とする場合と、家康が征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開いた1603年とする場合があり、区切り方には幅がある。
織田信長の時代
室町幕府の権威が衰えると、各地の大名や武将が実力で勢力を広げる下剋上の風潮が強まり、全国は戦国の世となった。その中で頭角を現したのが、尾張の戦国大名・織田信長である。1560年、駿河の今川義元は大軍を率いて上洛を企図し、尾張を通過して西へ向かったが、桶狭間で信長の奇襲を受けて討たれた。信長は1567年に美濃の斎藤氏を滅ぼし、稲葉山城を岐阜城と改めて本拠とし、「天下布武」を掲げて勢力を拡大した。1568年には足利義昭を奉じて上洛し、15代将軍に擁立したが、その後対立を深め、1573年には義昭を京から追放し、室町幕府を事実上滅ぼした。
信長は、近江の浅井氏や越前の朝倉氏を姉川の戦いなど一連の戦いで破り、さらに1575年には長篠の戦いで甲斐の武田勝頼を大敗させるなど、畿内から東海・北陸にかけて広い支配圏を築いた。全国統一には至らなかったが、中央集権的支配への道筋を大きく切り開いたといえる。信長は楽市楽座の実施や関所の撤廃など、市場の自由化を進め、経済発展を促した。また、鉄砲や南蛮貿易を積極的に利用し、キリスト教を一定程度容認することで、寺社勢力を牽制しつつ国際交易の利益を取り込もうとした。しかし1582年、京都に滞在中、本能寺で家臣の明智光秀に急襲され、自害して生涯を閉じた(本能寺の変)。
豊臣秀吉の時代
本能寺の変当時、中国地方で毛利氏と交戦していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、急報を受けて毛利方と和睦し、軍を反転させて山崎の戦いで明智光秀を討った。信長の後継をめぐって、秀吉は越前の柴田勝家と対立し、賤ヶ岳の戦いでこれを破ることで主導権を握った。秀吉はその後、信長の事業を継いで全国統一を進め、1585年には四国の長宗我部氏を服属させ、1587年には九州の島津氏を服属させた。さらに1590年には小田原攻めで関東の北条氏を滅ぼし、奥州の伊達氏なども形式的に臣従させて、名目上の天下統一を達成した。
豊臣政権のもとで、国内統一を支える体制整備も進められた。秀吉は大名の領地を検地帳に基づいて把握する太閤検地を全国的に実施し、石高制にもとづく年貢負担を明確にした。また、農民から刀・槍などの武器を取り上げる刀狩令を出し、農民を耕作に専念させるとともに、武士と農民の身分的区別を明確にした。これらの政策により、「一地一人の支配」や「兵農分離」が進み、江戸時代の幕藩体制につながる基盤が形づくられた。
豊臣秀吉の外交政策
対外関係では、信長が南蛮貿易の利権確保や仏教勢力牽制のためにキリスト教を一定程度容認したのに対し、秀吉はしだいに警戒を強めた。九州平定の過程で、キリシタン大名の大村純忠が長崎を教会に寄進していたことなどを知ると、1587年に宣教師の国外退去を命じるバテレン追放令を出し、布教の制限に踏み切った。
一方で、秀吉は大陸進出の野心を抱き、対馬の宗氏を通じて朝鮮に明への道案内と服属に近い対応を要求した。朝鮮側がこれを拒否すると、1592年に大軍を朝鮮半島へ送り込んだ(文禄の役)。日本軍は当初、朝鮮南部から漢城(ソウル)、平壌にまで進撃したが、朝鮮水軍の奮戦や明軍の援軍もあり、前線は膠着し、やがて休戦となった。講和交渉が決裂すると、1597年に再び朝鮮へ出兵した(慶長の役)。しかし1598年、秀吉が病没すると、日本軍は撤兵し、長期にわたる朝鮮出兵は終結した。この戦争は西国の諸大名に大きな負担を強いて疲弊させる一方、出兵に主力として加わらなかった徳川家康らは兵力と財力を温存し、戦後政治の主導権を握る条件を整えた。
豊臣政権の滅亡
秀吉の死後、後継者である豊臣秀頼はまだ幼く、政権運営は五大老と五奉行に委ねられたが、その中で徳川家康と石田三成との対立が深まった。1600年、家康方の東軍と三成ら西軍が美濃の関ヶ原で激突する関ヶ原の戦いが起こり、東軍が勝利した。家康は諸大名の領地を再配分し、西軍に属した大名を大きく削減・移封することで、自らに従う諸侯を全国に配置した。1603年、家康は征夷大将軍に任ぜられ江戸に幕府を開き、本格的な武家政権である江戸幕府が成立した。
江戸幕府の成立後も、豊臣家は依然として大坂城に居を構え、大きな経済力と軍事力を保持していた。家康はこの存在を脅威とみなし、方広寺大仏殿再建に際して鋳造された鐘の銘文を問題視して豊臣家攻撃の口実とした。1614年には大坂冬の陣、翌1615年には大坂夏の陣が起こり、夏の陣で大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀殿が自害して豊臣氏は滅亡した。これにより、戦国以来続いた大名どうしの大規模な戦争は終息し、日本は江戸幕府のもとでの長期の平和と統治、すなわち江戸時代へと移行したのである。
安土桃山時代の年表
| 1560年 | 桶狭間の戦い |
| 1568年 | 織田信長、足利義昭を15代将軍に擁立 |
| 1573年 | 織田信長、足利義昭を京から追放(室町幕府滅亡) |
| 1575年 | 長篠の戦い |
| 1582年 | 本能寺の変 |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦い |
| 1590年 | 北条氏滅亡 |
| 1592年 | 文禄の役 |
| 1598年 | 慶長の役 |
| 1600年 | 関ヶ原の戦い |
| 1603年 | 徳川家康、征夷大将軍に 江戸幕府開始 |
| 1614年 | 大阪冬の陣 |
| 1615年 | 大阪夏の陣(豊臣家滅亡) |
安土桃山時代について学ぶことのできる施設
■桶狭間周辺のみどころ一覧(愛知県名古屋市緑区HP)
http://www.city.nagoya.jp/midori/page/0000052400.html
■長篠の戦い(愛知県新城市観光協会HP)
http://shinshirokankou.com/history.html
■清洲城
https://www.city.kiyosu.aichi.jp/shisetsu_annai/kanko_shisetsu_sonota/kiyosujo.html
■本能寺
http://www.kyoto-honnouji.jp/
■小牧・長久手の戦い|小牧城(名古屋観光HP)
http://nk.xtone.jp/archives/komakijo.html
■小牧・長久手の戦い|犬山城(国宝犬山城HP)
http://inuyama-castle.jp/
■大阪城(大阪城天守閣HP)
http://www.osakacastle.net/
