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平安時代

桓武天皇の時代

光仁天皇の譲位を受けて即位した桓武天皇は、784年(延暦3年)に都を長岡京へ移した。しかし、造長岡宮使の藤原種継が暗殺される事件が起こったことや、長岡京の地理的条件などの問題から、794年(延暦13年)に平安京へ遷都した。平安京は、淀川水系を利用した水運によって難波や西国と結ばれる交通の便がよく、また奈良の仏教勢力の影響を避けることができる場所として選ばれた。

 桓武天皇は、律令国家体制の立て直しにも努めた。792年(延暦11年)には軍団制の改革を行い、陸奥・出羽・佐渡・西海道諸国を除く諸国で徴兵制による軍団を廃止し、郡司層や在地有力農民の子弟を兵士とする健児制を採用した。これにより、人々の負担を軽くし、地方の治安維持を図った。また、国司の交代に際して不正が起こらないよう、引き継ぎを監督する勘解由使を設けた。さらに、東北地方では、征夷大将軍に任命した坂上田村麻呂を派遣し、蝦夷に対する支配を進めた。

 

平城・嵯峨天皇の時代

桓武天皇の後を継いだ平城天皇、さらに嵯峨天皇の時代には、桓武天皇以来の政治方針が引き継がれた。809年、平城天皇は病気のため異母弟の嵯峨天皇に譲位して平城上皇となり、平城京に移った。しかし、藤原薬子・仲成兄妹らは、平城上皇の復位と平城京への遷都を企て、810年に薬子の乱を起こした。この乱は嵯峨天皇によって鎮圧され、以後、天皇の権威は強化された。

 嵯峨天皇は、政務の円滑化を図るため、即位直後に天皇の側近として詔勅や政務の機密を扱う令外官である蔵人所を設け、蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足を任命した。また、都の治安維持と裁判を担当するため、のちに検非違使が設置された。さらに嵯峨天皇は、律令の補足や修正をまとめた格と、施行の細則である式を整理させ、弘仁格式を編纂させるなど、律令政治の整備を進めた。

 

藤原北家の台頭

薬子の乱によって藤原式家が没落した後、藤原北家が次第に台頭した。藤原冬嗣の子である藤原良房は、842年の承和の変において伴健岑・橘逸勢らを失脚させ、良房の姉妹である順子の子である道康親王(のちの文徳天皇)を皇太子とした。さらに、866年の応天門の変で伴善男が失脚すると、良房は人臣として初めて摂政に就任し、藤原北家の地位を大きく高めた。

 良房の養子である藤原基経は、887年(仁和3年)の阿衡事件を経て、889年(寛平元年)に正式に関白となり、摂関政治の基礎を固めた。基経の死後、宇多天皇は関白を置かず、藤原氏の勢力を抑えようとして菅原道真を重用した。しかし、醍醐天皇の時代になると、道真は藤原時平の讒言によって大宰権帥に左遷され(901年、昌泰の変)、藤原北家の政権は引き続き維持された。

 さらに、969年(安和2年)の安和の変では、藤原実頼が源高明を失脚させ、藤原北家は朝廷内で他氏をしのぐ優位な地位を確立した。

  宇多天皇は基経の死後、関白を置かず菅原道真を蔵人頭に登用したが、醍醐天皇の時代、道真は藤原時平によって大宰権帥に左遷され(昌泰の変)、藤原北家の権力は維持された。969年の安和の変では藤原実頼が源高明を失脚させ、藤原北家の他氏排斥は完成した。

 

摂関政治

 平安時代中期には、藤原北家を中心とする摂政・関白が天皇を補佐して政務を担う体制が進展した。とくに安和の変(969)以後は、他氏が政界から排除され、摂政・関白の地位は藤原北家によって独占されるようになった。摂関政治の最盛期は藤原道長・頼通父子の時代であり、道長は娘たちを次々に天皇の后とし、外戚として絶大な権力をふるった。頼通も長期にわたって政権を担当し、藤原氏の権勢は頂点に達した。

 この頃には、摂政・関白が人事や国政の決定に大きな影響力をもち、政治運営の中心的役割を果たしたが、天皇も依然として最終的な権威として重要な地位を保っていた。藤原氏内部での権力争いが政治の主軸となる一方で、地方では前九年の合戦(1051–62)や後三年の合戦(1083–87)などの戦乱が起こり、朝廷の支配力と権威は次第に揺らぎ始めた。やがて後三条天皇が即位して摂政・関白を置かず親政を行い、その後の白河上皇による院政の開始によって、摂関政治はしだいに衰退していった。

 

武士団の成長

平安京では貴族文化が栄えた一方で、地方社会では律令制にもとづく支配体制が次第に揺らいでいった。多くの国司は任国に赴かない遙任となり、実際の行政や徴税は現地の受領や在地官人に委ねられるようになった。その結果、国衙による統治は弱体化し、地方の負担は重くのしかかることとなった。

 こうした中、地方の豪族は寺社や貴族と結びついて荘園を開発し、寄進によって不輸・不入の特権を獲得することで、国衙の課税や干渉を免れるようになった。律令制の基盤が崩れるなかで、これらの豪族は武装した従者を組織し、武力を背景に地域の実効支配を強め、武士団として成長していった。

 10世紀には、東国で平将門が国府に反乱を起こし(平将門の乱)、西国では藤原純友が海賊勢力を率いて瀬戸内海を制圧し、大宰府を攻撃・焼討ちする事件が起こった(藤原純友の乱)。これらの反乱はいずれも鎮圧されたものの、朝廷は大規模な軍事力を自前で動員することが困難となっており、鎮圧には地方の武士勢力の力を借りざるを得なかった。

 その後も、1028年の平忠常の乱、1051年から62年にかけての前九年の合戦、1083年から87年にかけての後三年の合戦など、地方を舞台とする戦乱が相次いだ。これらの過程を通じて、武士団は軍事的・社会的に重要な存在として台頭し、やがて中世の武士政権成立へとつながっていくこととなった。

 

院政と平氏

藤原頼通の娘が皇后・中宮とならなかったため、1068年、藤原氏の外戚関係をもたない後三条天皇が即位した。後三条天皇は、延久の荘園整理令を発して記録荘園券契所を設け、荘園整理を進めるとともに、度量衡の統一を目的として宣旨枡を定めるなど、政治改革を行った。

 後継の白河天皇も、後三条天皇の改革路線を継承しつつ政治を行ったが、1086年に譲位して上皇となり、堀河天皇を即位させて院政を開始した。院政下では、上皇が院宣や院庁を通じて直接政務に関与し、知行国制の整備や荘園の集積、さらに北面武士の編成などによって、独自の政治的・経済的基盤を確立した。白河上皇の院政は、鳥羽上皇、後白河上皇へと引き継がれていった。

 1156年、鳥羽上皇の死を契機として皇室および摂関家内部の対立が激化し、保元の乱が起こった。続く1159年には、当初は後白河上皇の側近として勢力を伸ばしていた藤原信頼が、信西入道(藤原通憲)との対立を深め、平治の乱においては二条天皇を擁して挙兵した。一方、信西は後白河上皇および平清盛と結んでこれに対抗した。この乱で勝利した平清盛は、院政下において武士として初めて政権の中枢に進出し、後白河上皇との協調関係のもとで平氏政権を築いた。その後、清盛と後白河上皇は次第に対立を深めたが、平氏は外戚として朝廷政治に深く関与し、武士が中央政界で主導的役割を担う先例をつくった。この平氏政権は、のちの本格的な武家政権成立への重要な前段階となった。

 

平安時代の年表

784年 長岡京遷都
794年 平安京遷都、律令体制の再整備が進む
805年 徳政相論(菅野真道と藤原緒嗣の対立)
810年 薬子の乱(平城上皇・藤原仲成・薬子 vs 嵯峨天皇)
842年 承和の変(伴健岑・橘逸勢らの失脚)
866年 応天門の変(伴善男の失脚)
888年 阿衡の紛議(藤原基経が関白の地位を確立)
899年 藤原時平、右大臣に就任
939年 平将門の乱
941年 藤原純友の乱
958年 乾元大宝鋳造(皇朝十二銭の一つ)
969年 安和の変(源高明左遷、藤原氏の権勢強化)
1001~1008年頃 紫式部『源氏物語』成立(王朝文化の最盛期)
1028年頃 平忠常の乱(房総)―源頼信が鎮圧
1051~1062年 前九年の役(安倍氏の乱)―源頼義が鎮圧
1069年 延久の荘園整理令
1072年 白河天皇即位
1073年 白河上皇、院政を開始(初の本格的院政)
1083~1087年 後三年の役―源義家が鎮圧、藤原清衡が台頭
1087年 堀河天皇即位(白河上皇の院政継続)
1107年 源義親の乱―平正盛が鎮圧
1156年 保元の乱(後白河天皇側の勝利)
1159年 平治の乱(平清盛の勝利)
1167年 平清盛、太政大臣に就任
1177年 鹿ケ谷の陰謀(俊寛・藤原成親・平康頼ら)
1179年 後白河法皇幽閉(治承の政変)
1180年 以仁王の令旨、源頼朝挙兵/安徳天皇即位
1180~1185年 治承・寿永の乱(源平合戦)
1185年 壇ノ浦の戦い、平氏滅亡

平安時代について学ぶことのできる施設

■元興寺(奈良県奈良市)
https://gangoji-tera.or.jp/

■女人高野 室生寺(奈良県宇陀市)
https://www.murouji.or.jp/

■世界遺産 平等院(京都府宇治市)
http://www.byodoin.or.jp/

■宮島観光公式サイト(広島県廿日市市)
https://www.miyajima.or.jp/

■関山 中尊寺(岩手県平泉町)
http://www.chusonji.or.jp/


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