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江戸時代後期、特に天保期から安政期にかけて、江戸幕府は内政の行き詰まりと対外的危機に直面し、その支配体制を大きく動揺させた。
1830年代には天保の飢饉(1833–1839)が発生し、特に東北地方や北陸地方を中心に深刻な被害が広がった。このため農村は著しく疲弊し、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発して社会不安が増大し、幕府の支配力は低下した。1837年には、大坂町奉行所の元与力であった大塩平八郎が反乱を起こした(大塩平八郎の乱)。大塩は陽明学の思想に基づき、飢饉に苦しむ民衆を救済しない幕府や役人の腐敗を厳しく批判し、道義的立場から挙兵した。この乱は短期間で鎮圧されたものの、幕府の政治的・道徳的権威の動揺を強く印象づけた。
幕府はこのような危機に対応するため、老中水野忠邦を中心として、1841年から1843年にかけて天保の改革を実施した。この改革では倹約の奨励や風俗の取締り、出版統制の強化などが行われたほか、都市に流入した農民を帰村させて農村の再建を図る人返し令も出された。しかし、1843年に江戸や大坂周辺の大名・旗本の領地を幕府直轄地に編入しようとした上知令(上地令)は、大名や旗本の強い反対により実施前に撤回され、改革は失敗に終わった。この結果、幕府の権威はかえって低下することとなった。
一方、対外関係においても重大な変化が生じていた。1840年に始まったアヘン戦争で清がイギリスに敗北したことは、日本に西洋列強の軍事力の強大さを強く認識させた。これを受けて幕府は1842年、従来の異国船打払令を緩和して、外国船に薪水や食料を与えて退去させる天保の薪水給与令を発して対外政策を転換した。
さらに、1846年にはアメリカ使節ビドルが浦賀に来航して開国を求めたが、幕府はこれを拒否した。しかし、1853年にアメリカ海軍代将マシュー・ペリーが浦賀に来航して開国を強く要求すると、幕府は対応を迫られ、翌1854年に日米和親条約を締結して下田と箱館を開港した。また、ロシア使節プチャーチンとの交渉も進められ、1855年には日露和親条約が締結された。
ペリー来航に際して老中首座であった阿部正弘は、それまでの幕府専断の政策決定を改め、朝廷や諸大名の意見を求める方針を採用した。このことは朝廷が政治に関与する契機となり、以後、朝廷の政治的影響力は次第に増大していった。また幕府は海防の強化を目的として、西洋の軍事技術を導入した。砲術家高島秋帆は洋式砲術の訓練を行い、韮山代官江川英龍(通称太郎左衛門)は反射炉の建設を進めるなど、防衛体制の整備が図られた。
文化面では、文化・文政期に栄えた化政文化は天保期以降やや衰退していったものの、その影響は庶民文化の中に引き続き見られた。特に葛飾北斎や歌川広重の浮世絵は広く親しまれ、庶民文化として発展を続けたが、天保の改革によって出版統制や風俗取締りが強化され、文化活動には一定の制約が加えられた。
このように、天保期から安政期にかけては、飢饉や一揆による社会不安、改革の失敗による幕府権威の低下、さらに外国の接近による対外危機が重なり、幕府体制は大きく動揺した。
19世紀中葉、産業革命の進展により欧米列強は海外市場や補給基地を求めてアジアへ進出し、日本にも開国を要求するようになった。1837年にはアメリカ商船モリソン号が日本人漂流民の送還を名目に来航したが、幕府は異国船打払令に基づいてこれを砲撃し退去させた(モリソン号事件)。その後のアヘン戦争における清の敗北は、日本に対外政策の見直しを迫る大きな契機となった。
1854年に日米和親条約が締結されて下田と箱館が開港すると、幕府はさらにイギリス・ロシア・オランダ・フランスとも和親条約を結び、欧米諸国との外交関係を拡大した。その後、1856年に下田に着任したアメリカ総領事タウンゼント・ハリスは、日本に対して本格的な通商条約の締結を強く求めた。当時、朝廷では攘夷論が強まっていたが、幕府は開国を不可避と判断し、1858年に大老井伊直弼は朝廷の勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結した。さらに同年、幕府はオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の修好通商条約を締結し、これらは安政の五カ国条約と総称される。
これらの条約によって、1859年に神奈川(実際の開港地は横浜)・長崎・箱館が開港し、さらに新潟や兵庫も開港することが定められ、江戸や大坂の開市も取り決められた。しかし、これらの条約は外国人に領事裁判権を認め、日本の関税自主権を制限するなど、日本にとって不利な不平等条約であった。
開国によって日本では生糸などの輸出が急増したが、日本と外国との金銀交換比率の違いによって金貨が大量に海外へ流出した。このため幕府は1860年に金含有量を約3分の1に減らした万延小判を発行するなどの貨幣改鋳を行ったが、その結果、物価が上昇し、経済は混乱した。
このような社会不安の中で、外国の排除と天皇中心の政治を求める尊王攘夷運動が広がり、水戸学や国学の影響を受けた下級武士を中心に政治運動が活発化した。これに対し井伊直弼は1858年から1859年にかけて安政の大獄を行って反対派を弾圧したが、1860年、桜田門外の変で暗殺された。この事件によって幕府の権威は大きく低下し、日本は幕末の動乱を迎え、やがて江戸幕府の滅亡と明治維新へとつながっていった。
開国後、幕府は朝廷との協調によって権威の回復を図る公武合体政策を推進した。1862年、薩摩藩の実力者である島津久光が率兵して上京したことを契機に公武合体論が強まり、久光の朝廷・幕府双方への働きかけにより、徳川慶喜(一橋慶喜)が将軍後見職、松平春嶽が政事総裁職に就任して幕政改革の中心となった(文久の改革)。幕府は朝廷の権威を取り込みながら体制の立て直しを図ったが、攘夷論の高まりとの調整に苦慮した。
1863年、長州藩は朝廷の攘夷決行の勅命を背景に下関海峡で外国船を砲撃し、下関戦争(馬関戦争)の発端となった。しかし1864年、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四国連合艦隊による報復攻撃を受けて敗北し、賠償金の支払いを余儀なくされた。これにより、武力による攘夷の実行が困難であることが明らかとなった。
同時期、薩摩藩は1863年の薩英戦争(イギリス艦隊による鹿児島砲撃)で近代兵器の威力を痛感し、以後は開国と軍備強化を進める方針へと転換していった。一方、長州藩では1864年の禁門の変での敗北と第一次長州征伐により尊王攘夷急進派(三家老ら)が処分され、藩内では俗論派(保守派)が主導権を握った。しかし同年12月、高杉晋作が功山寺挙兵を起こして俗論派を打倒し、正義派政権を樹立した。長州藩は武備恭順を掲げて幕府に対して表面上は恭順の姿勢を示しながら軍備を強化し、やがて倒幕を目指す方針を固めていった。
こうした中、1866年1月、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀と、長州藩の木戸孝允らは、坂本龍馬らの仲介により薩長同盟を結成した。これにより、それまで対立していた薩摩藩と長州藩が提携し、幕府に対抗する有力な軍事・政治同盟が成立した。これに対し幕府は、同年6月に第二次長州征伐(四境戦争)を開始した。しかし、長州藩は奇兵隊などの身分にとらわれない新式軍隊を中心に幕府軍を各地で撃退し、幕府軍は大きな損害を受けて撤退した。この敗北により幕府の軍事的威信は大きく低下し、その支配力の衰退が明らかとなった。
さらに同年12月、孝明天皇が崩御すると、朝廷と幕府の関係は大きく変化し、政局は一層流動化した。こうして幕府の権威は急速に低下し、日本の政治は倒幕へと向かう激動の段階へと進んでいくこととなった。
1867年11月(慶応3年10月14日)、第15代将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、政権を朝廷に返上した。これは、幕府主導の政治的影響力を維持しつつ、新たな政治体制の中で主導権を保とうとする意図によるものであった。
しかし同年12月9日(慶応3年11月9日)、薩摩藩・長州藩・土佐藩などの倒幕派は朝廷に働きかけ、王政復古の大号令を発した。これにより、征夷大将軍・摂政・関白などの旧来の官職が廃止され、天皇を中心とする新政府の樹立が宣言され、幕府の政治体制はここに終焉した。さらに新政府は慶喜に対して辞官納地(官職と領地の返上)を求めたが、慶喜はこれに強く反発し、旧幕府勢力と新政府との対立は武力衝突へと発展した。
1868年1月(慶応4年1月)、京都南部で鳥羽・伏見の戦いが起こり、新政府軍が旧幕府軍に勝利した。これを契機として戊辰戦争が始まり、日本各地で戦闘が展開された。同年4月、新政府軍の西郷隆盛と旧幕府側の勝海舟との会談により江戸城の無血開城が実現し、江戸での大規模な戦闘は回避された。これにより幕府の本拠地は新政府の管理下に入った。
しかし東北地方では、会津藩や庄内藩などが奥羽越列藩同盟を結成して新政府に対抗し、戦火は北日本へと拡大した。さらに旧幕府海軍を率いた榎本武揚は1868年10月に艦隊を率いて江戸を脱出し、蝦夷地へ渡った。榎本らは箱館(現在の函館)を拠点として独自の政権(箱館政府)を樹立し、新政府に対抗した。これに対し新政府軍は1869年に蝦夷地へ進軍し、箱館戦争で旧幕府勢力を破った。1869年6月、榎本武揚が降伏したことにより戊辰戦争は終結し、ここに約260年続いた江戸幕府は完全に滅亡した。
一方、新政府はすでに1868年(明治元年)に五箇条の御誓文を発して、新しい国家の基本方針を示した。また同年、江戸は東京と改称され、1868年に天皇が東京へ行幸し、1869年に本格的に移住したことで、東京が事実上の首都となった(東京奠都)。その後、新政府は中央集権化を進め、1869年に版籍奉還を実施して大名に領地と人民を返上させ、さらに1871年には廃藩置県を断行して藩を廃止し、府県を設置した。これにより幕藩体制は完全に解体された。
さらに新政府は富国強兵・殖産興業を基本政策として近代化を推進し、1871年から1873年にかけて岩倉使節団を欧米に派遣して、西洋の政治制度・産業・軍事技術の調査を行い、その成果をもとに近代国家建設を進めた。
こうして日本は封建的な幕藩体制から脱却し、天皇を中心とする中央集権的な近代国家として、新たな時代である明治時代を迎えたのである。
| 1842 | 天保の薪水給与令を発布。異国船打払令を緩和し、外国船に薪水・食料の給与を認める。 |
| 1843 | 上知令を発布するが、諸藩の反対により実施されず。天保の改革が行き詰まる。 |
| 1844 | オランダ国王ウィレム2世の開国勧告国書が到来。幕府はこれを拒否。 |
| 1853 | アメリカ使節マシュー・ペリーが浦賀に来航し、開国を要求。 |
| 1854 | 日米和親条約(神奈川条約)を締結。下田・箱館を開港し、寄港および薪水・食料の補給を認める。 |
| 1855 | 安政江戸地震発生。江戸に大被害。 |
| 1856 | タウンゼント・ハリスが下田に着任。通商条約交渉を開始。 |
| 1858 | 大老井伊直弼が勅許を得ないまま日米修好通商条約を締結。不平等条約体制が成立。安政の大獄が始まる。 |
| 1859 | 横浜・長崎・箱館を開港。外国人居留地を設置。 |
| 1860 | 桜田門外の変。井伊直弼が暗殺される。 |
| 1861 | 皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁。公武合体政策が進む。 |
| 1862 | 生麦事件発生。薩摩藩士がイギリス人を殺傷。 |
| 1863 | 長州藩が下関で外国船を砲撃(下関事件)。 |
| 1864 | 禁門の変(蛤御門の変)で長州藩敗北。第一次長州征討により長州藩は恭順。同年、四国艦隊が下関を砲撃。 |
| 1865 | 幕府が第二次長州征討を決定・準備。 |
| 1866 | 薩長同盟成立。将軍徳川家茂死去。第二次長州征討で幕府軍敗北。 |
| 1867 | 第15代将軍徳川慶喜が大政奉還。同年、王政復古の大号令が出される。 |
■浦賀レンガドック(神奈川県横須賀市)
https://www.wakuwaku-yokosuka.jp/uragarengadock.php
■横須賀市ペリー記念館(神奈川県横須賀市)
https://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/5560/sisetu/fc00000442.html
■横浜開港資料館(神奈川県横浜市)
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/
■下田開国博物館(静岡県下田市)
https://www.shimoda-museum.jp/
■旧イギリス領事館(開港記念館)(北海道函館市)
https://www.fbcoh.net/
■山手西洋館群(神奈川県横浜市)
https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/
■長崎歴史文化博物館(長崎県長崎市)
https://www.nmhc.jp/
■出島(長崎県長崎市)
https://nagasakidejima.jp/
■高知県立坂本龍馬記念館(高知県高知市)
https://ryoma-kinenkan.jp/
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