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奈良時代

藤原不比等の時代

藤原不比等は中臣鎌足の次男であり、藤原氏の政治的基盤を確立した人物である。天武・持統朝以来、律令制の整備が進められていたが、不比等はそれを実質的に完成させた立役者であった。草壁皇子が686年に早世すると、不比等は持統天皇の信任を受け、草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)の後見として朝廷の中心に立った。不比等は701年に大宝律令の編纂完成を主導し、律令国家体制の法的基盤を整えた。この律令により、中央と地方の行政機構、租庸調を基盤とする税制、戸籍に基づいた班田収授制度などが制度化された。

 710年には中国の唐の都・長安にならって平城京へ遷都され、ここに奈良時代が始まる。平城京は都城制にもとづく初の本格的な都であり、以後74年間、政治・文化の中心として栄えた。不比等は律令制の確立とともに、自らの一族を政権の中枢に配置することにも注力し、後の藤原氏繁栄の基礎を築いた。718年には養老律令の編纂を完成させたが、これは後に757年に施行されるまで実際には用いられなかった。不比等の死(720年)は、律令国家の制度が完成した一方で、藤原氏を中心とする政治権力構造の時代を開く契機となった。

 

長屋王(天武天皇の孫)の時代

不比等の死後、政権を主導したのは天武天皇の孫・長屋王であった。長屋王は皇族でありながら律令に詳しく、学識高い政治家として知られる。彼の治世の背景には、律令制度が定着しつつも、農民の逃亡や浮浪、租税負担の不均衡、耕地不足といった社会問題が顕在化していたことがある。こうした状況を打破すべく、722年に「百万町歩開墾計画令」を出して全国的な開墾を奨励した。さらに翌723年には「三世一身の法」を制定し、開墾地の一定期間の私有を認めることで農民の労働意欲を引き出そうとした。

 しかし、政治的には藤原不比等の四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)との対立が激化した。光明子(藤原不比等の娘)を皇后とするか否かが政治問題化し、729年、藤原氏らが長屋王に謀反の疑いをかけて圧迫し、長屋王は自殺に追い込まれた。これを「長屋王の変」といい、皇族中心の政治から藤原氏中心の政治へと権力構造が大きく転換する契機となった。

 

藤原四家(南 北 式 京)の時代

長屋王の変によって藤原氏の地位はさらに強化され、光明子は王族以外で初めて皇后となった。不比等の四子——武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)——は「九卿のうち四卿を占めた」とされ、政権の中枢をほぼ掌握した。この時期、律令制に基づく国家運営は一層進展し、地方には国司が派遣され、戸籍・班田制などによる支配が定着しはじめた。

 しかし、733年頃から天然痘が全国的に拡大し、734年には藤原四兄弟が相次いで感染し没した。この疫病は人口を激減させ、租税の徴収や行政運営にも深刻な影響を与えた。政治の空白を埋める形で、次に台頭したのが橘諸兄である。

 

橘諸兄(光明皇后の兄)の時代

橘諸兄は皇族出身であり、聖武天皇の信任を受けて政権を担当した。彼は唐から帰国した玄昉・吉備真備ら学僧・学者を登用し、中国・唐の文物や政治制度を吸収して改革を進めた。その結果、中央の行政機構が整備され、中国文化の影響を受けた国際的で華やかな宮廷文化が形成された。

 しかし、740年に藤原宇合の子・藤原広嗣が大宰府で反乱を起こした(藤原広嗣の乱)。これは地方統治の不満、仏教勢力拡大への反発などが背景にあったとされる。乱は大野東人によって鎮圧されたが、国家の不安定さが露呈した。さらに天然痘や飢餓が続き、聖武天皇は仏教の力によって社会の安定を図ろうと考えるようになった。741年には国分寺・国分尼寺の建立を命じ、743年には東大寺大仏造立を発願した。さらに同年、三世一身の法に代えて「墾田永年私財法」を発し、私有地拡大を認めた。これにより荘園が形成され始め、貴族や寺社の経済的基盤が強化されたのである。

 

藤原仲麻呂の時代

聖武天皇が譲位して孝謙天皇が即位すると、藤原南家の武智麻呂の子・藤原仲麻呂が急速に台頭した。仲麻呂は有能な行政官として律令政治の再建を進め、藤原一族の中でも突出した地位に立った。橘諸兄の子である橘奈良麻呂が757年にクーデターを企てたが失敗し(橘奈良麻呂の乱)、仲麻呂の権力は一層強化された。同年、718年に藤原不比等らが編纂した養老律令が正式に施行され、国家の法体系が整備された。仲麻呂は政治改革を進めつつ、行政の近代化を目指したが、その権勢はやがて皇族・僧侶勢力との対立を深める結果となった。

 

道鏡の時代

仲麻呂の政権は一族の支持と光明皇太后の信任によって支えられていた。淳仁天皇が即位したのちも仲麻呂が実権を握っていたが、760年に光明皇太后が没すると、孝謙上皇(前孝謙天皇)との不和が表面化した。孝謙上皇が病を患った際、僧・道鏡がこれを治療して寵愛を受け、道鏡の政治的影響力が急速に拡大した。これに危機感を抱いた仲麻呂は軍事権の掌握を図り、764年に恵美押勝の乱を起こしたが敗北して滅んだ。

 その後、孝謙上皇は再び称徳天皇として重祚し、道鏡を太政大臣禅師に任じて実権を委ねた。道鏡政権下では仏教政策がさらに強化され、国家祭祀にも仏教的要素が加わった。769年には宇佐八幡宮から「道鏡を天位につけよ」との神託が下ったと称されるが、和気清麻呂がこれを否定し、神託事件として朝廷を揺るがせた。770年に称徳天皇が崩御すると、皇位継承は道鏡に及ばず、光仁天皇が即位した。道鏡は下野国の薬師寺に左遷され、政治の舞台から完全に退いた。

 

藤原百川(式家)の時代

770年、称徳天皇が崩御すると、後継をめぐって混乱が生じた。道鏡は失脚し、政治の主導権を握ったのが藤原式家の藤原百川である。百川は藤原宇合の子で、有能な官僚として知られ、藤原永手らと協力して白壁王を擁立し、光仁天皇を即位させた。これにより、久しく中断していた天智系皇統が復活した。

 百川は仏教勢力が強大化した称徳・道鏡政権を反省し、貴族官僚中心の政務運営を回復させた。律令制の再整備、地方行政の監督強化、財政再建を進め、寺院勢力の政治介入を抑制した点が特徴である。これにより国家体制は安定し、奈良時代の末期に一定の秩序が取り戻された。

 百川の死後、政権は光仁天皇の子・山部親王(後の桓武天皇)へと継承される。百川の改革は、律令国家を再建し、平安時代の政治的基盤を整えた過渡期の試みであった。

 

奈良時代の年表

710年 平城京へ遷都
711年 蓄銭叙位令
718年 養老律令選定
722年 百万町歩開墾計画
723年 三世一身法
729年 長屋王の変
740年 藤原広嗣の乱
743年 墾田永年私財法
757年 養老律令の施行
橘奈良麻呂の変
764年 恵美押勝の乱

奈良時代について学ぶことのできる施設

■平城宮跡資料館ホームページ(奈良県奈良市)
https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/index.html

■正倉院(奈良県奈良市)
http://shosoin.kunaicho.go.jp/

■唐招提寺(奈良県奈良市)
https://toshodaiji.jp/

■華厳宗大本山 東大寺(奈良県奈良市)
http://www.todaiji.or.jp/index.html

■法相宗大本山 興福寺(奈良県奈良市)
http://www.kohfukuji.com/

■奈良薬師寺(奈良県奈良市)
http://www.nara-yakushiji.com/

■奈良県立万葉文化館(奈良県高市郡明日香村)
http://www.manyo.jp/


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