Japanese History Digest 公式ページへようこそ!
奈良時代
藤原不比等の時代
藤原不比等は中臣鎌足の次男であり、藤原氏の政治的基盤を確立した人物である。天武・持統朝以来、律令制の整備が進められていたが、不比等はそれを実質的に完成させた立役者であった。草壁皇子が689年に早世すると、不比等は持統天皇の信任を受け、草壁皇子の子である軽皇子(後の文武天皇)を支える立場として台頭した。不比等は701年に大宝律令の編纂完成を主導し、律令国家体制の法的基盤を整えた。この律令により、中央と地方の行政機構、租庸調を基盤とする税制、戸籍に基づいた班田収授制度などが制度化された。
710年には中国の唐の都・長安にならって平城京へ遷都され、ここに奈良時代が始まる。平城京は日本で本格的な条坊制が完成した都であり、以後74年間、政治・文化の中心として栄えた。不比等は律令制の確立とともに、自らの一族を政権の中枢に配置することにも注力し、後の藤原氏繁栄の基礎を築いた。不比等は718年に養老律令の編纂を進め、その内容を大宝律令の改訂として整えたが、これは不比等の死後に成立し、757年になって初めて施行された。不比等の死(720年)は、律令国家の制度が完成段階に達した一方で、藤原氏を中心とする政治権力構造の時代を開く契機となった。
長屋王(天武天皇の孫)の時代
不比等の死後、朝廷において主導的役割を果たしたのは天武天皇の孫・長屋王であった。長屋王は皇族でありながら律令に詳しく、学識高い政治家として知られる。彼の政権期には、律令制度が定着しつつも、農民の逃亡や浮浪、租税負担の不均衡、耕地不足といった社会問題が顕在化していたことがある。こうした状況を打破すべく、722年、朝廷は「百万町歩開墾計画令」を出して全国的な開墾を奨励した。さらに翌723年には「三世一身の法」を制定し、開墾地の一定期間の私有を認めることで農民の労働意欲を引き出そうとした。
しかし、政治的には藤原不比等の四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)との対立が激化した。光明子立后をめぐる問題や皇位継承を背景に政治対立が深まり、729年、藤原氏を中心とする政権中枢によって謀反の疑いをかけられ、長屋王は自殺に追い込まれた。これを「長屋王の変」といい、皇族中心の政治から藤原氏中心の政治へと権力構造が大きく転換する契機となった。
藤原四家(南 北 式 京)の時代
光明子は724年、王族以外で初めて皇后となり、これを背景に藤原氏の地位は次第に強化された。729年の長屋王の変によって、皇族中心の政治体制は大きく後退し、藤原氏の権勢は決定的なものとなった。不比等の四子――武智麻呂(南家)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)――は、九卿の中に複数名が任じられるなど、政権の中枢を広く掌握した。この時期、律令制に基づく国家運営は一層進展し、地方には国司が派遣され、戸籍や班田制による支配も次第に定着していった。
しかし、735年頃から天然痘が全国的に流行し、737年には藤原四兄弟が相次いで感染し没した。この疫病は人口を激減させ、租税の徴収や行政運営にも深刻な影響を与えた。藤原氏が一時的に衰退する中、政治の空白を埋める形で、次に台頭したのが橘諸兄である。
橘諸兄(光明皇后の兄)の時代
橘諸兄は皇親出身で臣籍に下った貴族であり、聖武天皇の信任を受けて政権を担当した。彼は唐から帰国した玄昉・吉備真備ら学僧・学者を登用し、中国・唐の文物を積極的に取り入れ、律令国家の運営や宮廷文化の充実を図った。その結果、中央の行政機構が整備され、中国文化の影響を受けた国際的で華やかな宮廷文化が形成された。
しかし、740年に藤原宇合の子・藤原広嗣が大宰府で反乱を起こした(藤原広嗣の乱)。これは玄昉・吉備真備らが重用される政権運営への不満や、地方官人層の反発が背景にあったとされる。乱は大野東人によって鎮圧されたが、国家の不安定さが露呈した。さらに天然痘や飢餓が続き、聖武天皇は仏教の力によって社会の安定を図ろうと考えるようになった。741年には国分寺・国分尼寺の建立を命じ、743年には東大寺大仏造立を発願した。さらに同年、三世一身の法に代えて「墾田永年私財法」を発し、私有地拡大を認めた。これにより、後の荘園制につながる私的土地経営が広がり始めた。
藤原仲麻呂の時代
聖武天皇が譲位し、天平勝宝元年(749年)に孝謙天皇(光明皇后の実子)が即位すると、藤原式家の藤原宇合の子・藤原仲麻呂が急速に台頭した。仲麻呂は有能な行政官として律令体制の運用強化と中央集権的政治を推進し、藤原氏の中でも突出した地位を築いた。天平宝字元年(757年)には、718年に藤原不比等らが編纂していた養老律令が、仲麻呂政権のもとで正式に施行され、律令国家の法体系が整備された。
同じ757年、橘諸兄の子である橘奈良麻呂が皇族や旧勢力と結び、クーデターを企てたが未然に発覚して失敗した(橘奈良麻呂の乱)。この事件によって仲麻呂の権力は一層強化され、政権は藤原仲麻呂を中心とする体制へと収斂していった。しかしその強大な権勢は、やがて皇族勢力や仏教勢力との対立を深め、後の藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)へとつながる要因となっていく。
道鏡の時代
仲麻呂の政権は、一族の支持と光明皇太后の信任によって支えられていた。淳仁天皇が即位した後も仲麻呂が実権を握っていたが、760年に光明皇太后が没すると、孝謙上皇(前孝謙天皇)と仲麻呂の不和が表面化した。762年頃から、上皇の病気に対する祈祷や看病にあたった僧・道鏡が寵愛を受け、政治的影響力を急速に拡大した。これに危機感を抱いた仲麻呂は軍事権の掌握を図り、764年に恵美押勝の乱を起こしたが敗北して滅んだ。
その後、孝謙上皇は再び称徳天皇として重祚(764年)し、道鏡を太政大臣禅師に任じて実権を委ねた。道鏡政権下では仏教政策が一層強化され、神仏習合が進展し、国家祭祀にも仏教的要素が加わった。769年には宇佐八幡宮から「道鏡を天位につけよ」との神託が下ったと称されるが、和気清麻呂がこれを否定し、いわゆる宇佐八幡神託事件として朝廷を揺るがせた。770年に称徳天皇が崩御すると、皇位継承は道鏡に及ばず、天智天皇系の光仁天皇が即位した。道鏡は下野国に流罪され、翌771年に没した。
藤原百川(式家)の時代
770年、称徳天皇が崩御すると皇位継承をめぐって政局は不安定となり、道鏡は失脚した。この過程で、藤原式家の藤原百川は藤原永手や吉備真備らと協力し、白壁王を擁立して光仁天皇を即位させることに成功した。これにより、天智天皇系皇統が復活し、皇位継承の正統性が再確認された。
光仁朝の政権は、百川をはじめとする有力貴族や官人による合議的な体制のもとで運営され、称徳朝・道鏡政権への反省から、貴族官僚を中心とする律令政治の立て直しが志向された。仏教勢力の政治的影響力は後退し、朝廷の政務は世俗官僚によって担われる体制が回復していった。
百川はこうした政権運営に深く関与し、国家秩序の安定に一定の役割を果たしたが、その死後も光仁天皇の治世は継続された。やがて皇太子・山部親王(後の桓武天皇)を中心とする体制が形成され、奈良時代末から平安時代へと向かう政治的転換の基盤が整えられていくこととなった。
奈良時代の年表
| 710年 | 平城京へ遷都(元明天皇) |
| 711年 | 蓄銭叙位令(貨幣流通の奨励) |
| 718年 | 養老律令の撰定(施行は757年) |
| 722年 | 百万町歩開墾計画令 |
| 723年 | 三世一身の法 |
| 729年 | 長屋王の変(藤原四子主導) |
| 740年 | 藤原広嗣の乱(大宰府) |
| 743年 | 墾田永年私財法 |
| 757年 | 橘奈良麻呂の変 |
| 757年 | 養老律令の施行 |
| 764年 | 恵美押勝の乱(藤原仲麻呂の反乱) |
奈良時代について学ぶことのできる施設
■平城宮跡資料館ホームページ(奈良県奈良市)
https://www.nabunken.go.jp/heijo/museum/index.html
■正倉院(奈良県奈良市)
http://shosoin.kunaicho.go.jp/
■唐招提寺(奈良県奈良市)
https://toshodaiji.jp/
■華厳宗大本山 東大寺(奈良県奈良市)
http://www.todaiji.or.jp/index.html
■法相宗大本山 興福寺(奈良県奈良市)
http://www.kohfukuji.com/
■奈良薬師寺(奈良県奈良市)
http://www.nara-yakushiji.com/
■奈良県立万葉文化館(奈良県高市郡明日香村)
http://www.manyo.jp/
本サイトに掲載している日本史に関する情報は、可能な限り正確性を期して作成しておりますが、その内容の完全性・正確性・最新性を保証するものではありません。 史料解釈の違い、研究の進展、記述上の不備等により、誤りが含まれる可能性があります。 また、本サイトには日本語の内容を基に作成した外国語ページが含まれており、翻訳過程において表現の差異や誤訳、不正確な表現が生じる場合があります。これらの翻訳ミスも含め、掲載内容に起因して生じたいかなる損害についても、当サイトは一切の責任を負いかねます。
